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ナンガパルパットは「経験の山」と呼ばれます。

あのアルバート・フェデリック・ママリー(A・F・ママリー)がナンガパルパット最初の犠牲者となって以来、多くの者がナンガパルバットに触れ、その経験がその後の登山に大きな影響を与えていきます。

ナンガパルバット登山中に第2次世界大戦が勃発し、イギリス軍に逮捕され、チベットに脱走した「セヴンイヤーズ・イン・チベット」のハインリッヒ・ハラー

1950年にイギリスの登山隊のサーダーとして参加したのが、後にエヴェレストの初登頂者となるテンジン・ノルゲイ

ナンガパルバットに憑つかれたように、試登を含め延べ10回ものエクスペディションを率い、カール・マリア・ヘルリヒコッファー

そして、ヘルリヒコッファーの元で初登頂に成功し、その後、チョゴリザに消えたヘルマン・ブール

(以上は、ほんの一部)

1970年のヘルリヒコッファーの登山隊に参加していた若者があの、ラインフォルト・メスナー。

この登山でメスナーは、ルパール壁からの登頂、自身初の8000m峰登頂という栄光を手にしながら、弟のギュンターを失ってしまうのです。

 また、足の指7本、手の指3本を凍傷で切断してしまいました。

(この時の登山の話は、あまりに複雑・・・、ここに、はしょって書くのも無理・・・信号弾の打ち上げ間違えとかまであり・・・興味のある方は、なにか本をどーぞ)

この時、メスナーは、隊長のヘルリヒコッファーと大喧嘩して、さらに、メンバーの奥さんと不倫までして・・・後に、隊長のヘルリヒコッファーとは裁判にまでなって、メスナー敗訴・・・・

 弟を見殺しにしたと、大!大!バッシング!を受け、登頂を疑問視する声も上がるのです。

そして、1978年・・・メスナーはナンガパルバットに戻ってくる!

また、あのソロクライマーとして名の知られたJC・ラファイユは2002年にナンガパルパットでシモーネ・モローをパートナーとして新ルートを拓きながらも、その後シモーネと決別。それはその後のシシャパンマの冬季登頂を巡った論議の発端にもなり、そして冬季登頂にこだわったマカルーで彼は真のソロクライマーとして逝く・・・。

その頂を目指す者に試練を与え続けるナンガパルパットは登って終わる「ゴールの山」ではなく「スタートの山」なのです。

2001年の私のナンガパルパットも、まさに「経験の山」となり、「スタートの山」となったのです。